レガシーメディアから見える風景

なんとなくユーキャンの資格講座の無料冊子をもらってきて読んでみる。
趣味の講座の部分でビデオ囲碁講座があったんだが媒体がVHS。
BDでもDVDでもなくVHS。
今時分再生できるデッキを探すのも苦労すると思う。
大正琴の講座ではなんとカセットテープ。
CDですらない。
こちらはまぁ探せば何とかなるかもしれないが流通では下手をするとレコード再生機以下なんではなかろうか。

別にユーキャンが時代遅れとかレガシーメディアばかり扱って要るって訳じゃない。
講座によってCDやDVDの物もあるしCDとカセットテープを選択できる講座もある。
つまる所これって対象者の選別なんじゃなかろうか。
カセットもVHSも今やレガシーとは言え一時期市場を席巻したメディアだ。
それしか使えないとまでは言わないがなるべくなら使い慣れた物を使いたいといった層も多いだろう。
年齢層に幅のあるであろう英語の講座などはCDのみDVDのみCDとカセット選択式と複数の講座が用意されている。

ここまで考えてドラッカーのポスト資本主義に書かれていた文言を思い出す。
親の世代の若かった頃を想像できない世代。
子供のいる友人も何人かいるが確かに彼らの子供は私達の世代の青春時代を想像できないだろう。
携帯電話とWEBが普及仕切っていなかったあの頃なんて今の子供たちは感覚として理解できないだろう。
一番年かさであろう子供が中学生を卒業するか否かだった筈だけどその子ですら無理だろう。

その状況をレガシーメディアを通してみるとどうだ。
15年程の昔私が学生だった時代位までメディアはまさにメディアだった。
TVやラジオから流れてくる以外の情報はパッケージされてくる物だった。
興味のある分野は雑誌に印刷され磁気テープや光ディスクに書き込まれ幾人もの人の手を渡り始めて必要とされる情報は手に入れることが出来た。
雑誌の文通欄や同人誌の通販コーナーなんてページもあった。

レガシーメディア以降のメディアはメディアの意味が変わりつつある中で生まれた物が多く今現在の主流のいくつかは既に変わった後のものがある。
情報媒体としてのメディアではなく記録媒体としてのメディアだ。
例としてあげるなら前者は新聞や雑誌で後者はメモ帳やノートだ。
どちらも紙だ。
新聞は加工された情報を印刷する雑誌もだ。
そして読者に届いて始めてその意味を持つ。
だがノートやメモ帳は違う。
初めは真っ白でもしかしたら罫線程度は印刷されているかもしれない。
伝えられべき情報は何も入っていない。
そこに何が入るかはペンとそれを持っている人間にゆだねられる。

私が16MBのスマートメディアにこんなに小さいのにFD10枚分以上なのかと興奮してた時代、
音楽は収められ流行は印刷され流通経路をトラックに乗ってやってきた。
メディアを通してそれらは伝った。
32GBのSDカードが珍しくない今現在それらはトラック以外からもやってくる。
メディアには何処からか来たそれらを収める。
音楽にしろ映像にしろ何を収めるかはユーザーの意思による。

新聞雑誌は紙という強固で歴史ある記録媒体としての優位性をもってして存在しており音楽CDは情報としての価値とは切り離されグッズとしての存在となった。

情報媒体としてのメディアから記録媒体としてのメディアに変わった現在そうでなかった時代を知らない世代は確かにその時代を想像しづらいだろう。